平太郎コラム


 石橋文化センタ-の音響設計

[夢のような技術協力]

  建築設計家の菊竹清訓氏がNHK技術研究所を来訪されたのは、1961年 秋・紅葉の季節だった。用件は単目的音楽ホール 音響設計の技術協力の依頼であった。ブリヂストンタイヤ()の石橋正二郎会長(当時の職名)の年来懐かれていた純粋の音楽ホールの建設を久留米市野中町に具現化するに当たり、私どもの音響研究部が十年来携わってきた武蔵野音楽大学ベートーベンホールや東京文化会館多目的ホールなどの音響設計の実績やノウハウを、今回の企画に生かしてほしいとのことであった。建築音響の研究に携わる者にとってはまたとない夢のような話であり、願ってもないこと。音響研究部あげての協力を約束した。

 

[お前にまかせる]

   依頼を受けた音響研究部部長の牧田康雄氏(のちの九州芸術工科大学教授)は建築音響が専門で上記ホールを手掛けた研究推進者であった。氏は部長職の合間に、ホールの基軸となる断面形状の図面作成は手がけるが、計画から完成までの取りまとめは、副部長の私に任せるということになった。その背景には、久留米市は私の郷里であり、施主正二郎の長男でホールの推進役でもある石橋幹一郎氏(当時ブリヂストン(株)の社長)は中学明善校で私の一年先輩の間柄でもあったことから、私の起用で建設の運営がよりスムーズにゆけると牧田部長が考えられての決定であった。施主代行の石橋幹一郎氏、建設全般の責任者・菊竹清訓氏、それに音響設計担当者の私の3人がホール建設の実行に当たることになった。

 

[共有した理念]

   施主・正二郎氏の要請「ホールはワンフロア、客席数1,200が限度、広いオーケストラピットつき」を出発点として、上記3名はそれぞれの立場から種々の提案をぶっつけ合った。

   その結果を2項目に要約した。「全客席によい響きを」に対しては、ホールの残響時間を多目的ホールの2割増しにする。客席に到達する一次反射音を平均化するのに天井反射板の適正配置と後部客席勾配の傾斜とで達成する。「演奏のし易すさ」に対しては、ステージ周りの天井、周壁を不整形とし、その間取りは反射音がエコーにならない限度で広くとる。

   この2項目を軸に実施設計に入ったが、具体的に進み始めると予算の増加がかさみ、何回となく施主を悩ませることになった。

 

 [言うは易しが]

   よく響かせると言うことは耳に快いが、設計図面を実作業に転じてみると予想以上の難問にぶつかった。ひびく反射材料は施工が悪いと余計な音を出す、図面通りの傾きと方向に材料を取り付ける方法や微妙な補正に多くの時間を要し、苦労が大きかった。響きが大きいため、機械の振動騒音や室内で発生する人為雑音も減衰し難いし、少な目になった吸音材をそれらの消音にいかに有効に配置するかなど、うまく響かせるのに気を遣った。施工現場に足を運ぶたびに難問の数が増えた。

 

[うまく響いたか]

   建物の竣工が近づくと完成の喜びとは裏腹に、予想通りの響きが得られているか、楽器を演奏したときに音が濁ったり、こもったりしなければよいがなどの心配が先に立った。

   完成を数日後に控えた夜更けに実施した音響測定により残響特性などの物理量は予想通りの数値がでたが、それだけでは不安で、仲間に頼んで楽器を持ち込んで試演して耳で確かめる試みもやった。そして196353日、会館の落成式を迎えた。こけら落としに九州交響楽団によってチャイコフスキーの白鳥の湖が公演された。その音響効果は大変よかったとの報告に、ホッと安堵の胸をなでおろした。

 

[やってよかった]

   音楽専用ホールの設計というまたとない機会に恵まれ、予期した音響効果が得られ、予想以上の評価を戴いた。私ども3人のプロモーターは達成感を喜び合い肩の荷を下ろすことができた。2年以上のお付き合いを通して、いつしか幹一郎さん、清訓さんとお互いにさんづけで話し合えるようになったのも、大きな収穫であった。あれから50年、本日の記念すべき時を待たずに、お二人は他界された。誠に淋しい限りである。しかしホール自体は50年の永い年輪を重ねて建物自体も内装材料もよくなじみ、その中で多くの音楽演奏に使い込まれてきた。今後とも、このホールは、エージングの行き届いたホールとして、いぶし銀のような妙(たえ)なる響きを私達音楽ファンに永く与え続けてくれるであろう。