甲府工場で製造されたスピーカの振動板が組み込まれた1976年11月発売のスピーカシステム
松本行の特急が新宿を出ると、私の耳朶には紙を抄く水流が響き、脳裡にはプレスする金型のすき間から吹き出す湯気が映る。もっと時間をかけて紙のせんいを叩解(こうかい:注)した方がよいのか、プレスの温度を少し上げてみようかな。いやそれとも上塗りの塗料を変えてみようかな。などなどいろいろな考えが去来するうちに、列車は甲府に到着する。
新しく1976年に設立したソニーのスピーカ工場「オーディオリサーチ(株)」は、ここから南方10キロの国母工業団地、笛吹川の近くにある。
私が社長、従業員は約300名。東京の本社ではオーディオ商品の開発から販売までを取り仕切る多忙の中でも、月に一度はこの地を訪れ、現地の技術者と丁々発止、スピーカの振動板について議論し方向付けするのが習わしで大変楽しみなリラックスできる貴重な一日であった。
工場が稼働して一年が経った頃、岩間和夫社長(当時のソニーでの役職)から電話があった。
「貴君は甲府にゆく時は、うきうきして楽しそうだ。余程住み心地の良いアジトを作ったらしい、案内し給え」
私は即答した。
「いずれそのうちにご報告を兼ね、お越し願うつもりでした。では来週如何ですか?」
工場は三階建て。もの作りの順にご案内します。
3階は、コーン紙のパルプ素材に、楮(コウゾ)、三椏(みつまた)、麻などを加えてビーターに入れ、細かくセンイ状に叩解する工程です。笛吹川から引いてタンクに貯めた水は、四季によって温度が変わる、紙の繊維を砕く叩解の過程でも温度が上がる、温度による叩解の進み方のコントロールに腐心しました。2階は抄紙しプレスしてコーンに仕上げる工程です。コーンの中心部と周縁とで紙を抄き分けます。加えて適度の内部損失を与えるなど、プレス工程は今なお検討中です。光ディスクでは気泡は禁物ですが、コーン紙ではわざと適量の気泡を入れて、振動によるロスを確保する必要があり、プレスのかけ方が重要でここに注力しています。(…ディスクとの比較に社長は大変興味をもたれた)
1階は防湿加工などのコーン紙の最終工程で、スピーカユニットの組み立ても行います。コーン紙とボイスコイルの組み立てで、コーン紙の表面(裏面でなく)にコイルを接着するのがコツです。裏面からつけると音がこもることが分かりました。
この一年間で、やっと売れるコーン紙が作れるようになりました。
次のステップで新しい材料の開発をすすめます。バクテリアセルロース、直鎖高分子ポリエチレン、マイカなどを取り上げています。全帯域用、低音用、高音用など、用途別に振動板材料の比弾性率E/ρと内部損失tanδの周波数依存―とくに高音域―に着目して新材料開発の指針にしています。
最後に社長室に案内した。山梨県で五指に数えられるおいしいワインと、コーン紙の温度調節に使う笛吹川の名水で作ったウイスキーの水割りとで、私のアジト案内を締めくくった。
社長「貴君がいそいそと甲府通いをするわけは分かった。そのうちまた来るよ。
ところで… これだけの道楽仕事を楽しんで飯は食えるのか?」
私「同じ振動板ですが、エレクトレットマイクの製造もやっており、当分これで食いつなぎます」
社長「コンペチターは?当面の目標は?」
私「アメリカのホーレーというコーン紙専門工場です。彼等は生粋のコーン紙OEM工場。この甲府工場、将来はシステムオリエンテッドのコーン紙で特長を出すつもりです」
社長「この種の工場、当社内でもユニーク過ぎる。理解できない人も多いと思う」
私「蓄えたノウハウは、工場の中だけでなく、技術者集団で作るコーンプロジェクトに温 存します」
<後日談>
1982年、岩間社長が急逝された。半年後、私はアイワに転出した。最後に社長が危惧された、社内で理解できない人たちの目線に、この工場の行く末を心配した。その予感は早々に的中した。それから僅か一年半後に工場は転売された。
コーンプロジェクトの中の数名は、その後、ビフレステック株式会社で、音場重視のスピーカシステムD’Eggの開発に取り組んだ。そのシステムのキーになっている卵型キャビネットに「つらいち」のマイカ振動板は、その流れの中で彼らが作り上げてくれたものである。
(注:叩解とは、植物から繊維を取り出したパルプ状のものを叩いて、繊維が切断・水和・膨潤・絡み合うようにする作業のこと)